第8回神経心理特別診
5月の神経内科特別診も多くの方に参加いただいき、盛会のうちに開催されました。
最初の症例は数年前に右PCA領域の脳梗塞を発症し、今回、左PCA領域梗塞により入院された方でした。半盲以外には目立った訴えがなくて、主治医も特に異常に気づいていませんでしたが、先週の回診で診たら典型的な視覚失認の症状がありました。物品を提示すると大まかな形状や色は説明できるものの、まったく呼称できず、触ると「あっ、これは毛糸ね」という具合で、視覚情報のみではほぼ100%呼称が不可能でした。そこで今度の特別診で詳しく評価することになっていたのですが、前日の回診で主治医より、「もう症状が消えてしまいました」との報告がありました。それでもいいからと予定通り、特別診で評価することにしました。
当日は主治医の先生も忙しい病棟業務の合間を縫って参加してくれました。実物品を提示したときの呼称は8割程度正解で、確かにこの1週間で著明に改善していました。しかし、WAB失語症検査の絵カードの提示ではほとんど呼称できませんでした。視覚失認では、実物品→写真→線画→網掛け線画の順に呼称が難しくなりますので、回復とともに実物品の呼称ができるようになっても、写真や線画の呼称はできないことがよくあります。また、この方は書字には問題ないものの、読字は困難で、自分で書いた文字すら読むことができませんでした。しかし、その字を指でなぞると読めるという現象(Schreiben des Lesen)が観察されました。これらは純粋失読で典型的にみられる所見です。さらに高次視知覚検査(VPTA)の熟知相貌の認知について評価を行いました。これは有名人の顔写真を提示して誰だか言ってもらう検査ですが、オリジナルのVPTAは開発されて随分たちますので、収載されている有名人も中曽根康弘元首相、長嶋茂雄選手、吉永小百合さんなど、だいぶ以前に活躍した政治家、スポーツ選手、俳優さんです。見学に来ていた学生さんはほとんどわからない様子で、ジェネレーションギャップを感じました。しかし、今回の患者さんには時代がちょうど合っていて、必ず知っている顔のはずですが、一人も正解できませんでした。後で主治医に聞くと、病棟でも何度会っても顔を認識してくれないとのことでした。両側の紡錘状回病変による物体失認、純粋失読、相貌失認を呈した非常に興味深い症例でした。
続いての症例は、左側頭葉の皮質下出血の患者さんでした。作業療法士さんから、「主治医の先生が運動性失語というのですが本当ですか」との相談を受け、診察にあたりました。失語症の評価では、話す、聞く、復唱する、読む、書くの5項目が中心となります。この方の自発話では「うーん」が多く、語の想起困難による発語量の減少が際立っているために、運動性失語と判断されたと思われます。しかし、注意深く観察すると、時々、滑らかにフレーズが出てきます。発話の衝動が保たれ、音の歪みもなく、プロソディーも自然であることから、運動性失語の特徴はほとんどないことがわかります。一方で、単純な動作指示にも従えず、理解障害は重度です。復唱・書字・読字もすべて強く障害されていました。失語分類としては全失語に該当しますが、発話障害の主因は喚語困難であり、後方病変による喚語困難、理解障害が中心症状でした。
診察の後は、抄読会で、小林聡朗先生がJoachim Bodamerの”Die Prosop-Agnosie. Die Agnosie des Physiognomieerkennes.” (1947)を取り上げて解説してくれました。この論文は非常に有名ですが、Bodamer自身についてはあまり詳細が知られていません。1947年といえば大戦直後ですが、この論文を執筆当時37歳で、ドイツ西南、シュツットガルトの北東部のヴィネンタール精神病院に勤務しています。大戦中は軍医として野戦病院で診療をしており、この論文で提示されている3症例も貫通銃創で脳損傷患者特別野戦病院へ運ばれたのをBodamerが診療にあたった兵士です。相貌失認の患者には顔がどのように見えるのか、何ができないのか、そんなことが鮮やかに記載されています。印象的なのは、患者が本当に妻の顔を認識できないのかを確かめるために、看護師の制服を着た奥さんを本物の看護師さんたちの中に立たせて、本人に当てさせる課題をしている描写です。幸いなことに奥さんを当てることができたようですが、目の表情が決め手だったと言ったそうです。この論文は現象の記載が素晴らしいだけではなく、相貌認知が物体の認知とは異なる特異的な機能であるという仮説を初めて提唱した点で、歴史的価値が高いものになっています。
抄読会の後は、中十条の「バル78」にて懇親会を行いました。今回は外部の先生のほか、3年生が大勢参加してくれました。このお店は初めてでしたが、ワインも日本酒も取り揃えており、落ち着いた雰囲気の中でゆっくりとお話ができました。遠方からご参加いただいている先生はいつも終電を気にしながらで申し訳ないのですが、忙しい日常の中で少しでも充実とくつろぎの時間を過ごしていただけたなら幸いです。
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